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711レが士幌駅を発車したということは士幌・上士幌間の閉塞がなされていて、上士幌駅の帯広方分岐機は下り本線に開いていたということだろう。下り本線側に広がる側線に本線から繋がる分岐機は当然定位で本線に開いていたと思うが、恐らくは鎖錠機構のない簡易な錘付転換機で、流転した貨車はその重みで分岐機を割り出し、本線上に出てしまったってことでしょうね。
コメントありがとうございます。ポイントの件については、はっきりしたことが分からずいささか疑問に思っていたのですが、このコメントの考察を見てなるほどと思いました。知識のある方のコメント勉強になりました。
42年道産子やってます、親戚は帯広にいて、亡き祖父は標茶駅の保線区にいたのですが、この事故の話は初耳でした。投稿ありがとうございます。
コメントありがとうございます。私が帯広に住んでいた時に士幌線が廃止になりました。その時に先輩が話していたのを思い出したのが調べるきっかけでした。
かなり有名話しですが 赤枠で初めてしりました ただしこ言う事例は一部のひとしか知らない場合が多くしらない事故も多いです。
戦争終結から10年経って、やっと生活も落ち着きを取り戻した時に…
コメントありがとうございます。仰る通り、さてこれから観光でもしてのんびり暮らそうかという矢先の事故。本当に無念だったと思います。
いつも貴重なお話ありがとうございます。今は昔、北の大地で発生した凄惨な事故は無き鉄道の思い出の前に風化していく…。
コメントありがとうございます。徐々に鉄路があったことを知る人も少なくなり、忘れられていくのでしょう。風化していくタウシュベツ橋梁のように。
ばけさんのチャンネルは知らない時代の北海道の事象の解説が多くて、ためになります。列車側はキハ12かなと思いましたが、5:43現場の写真だとキハ04かキハ05でしょうか。wiki見たら、士幌線の客貨分離をした5ヶ月後位でしたか。地域がら三股糠平からの貨車の暴走が何度も起きてますね。現在の上士幌駅跡交通公園でもそれくらいの勾配があるんでしょう。感じられないくらいのゆるい勾配に思いましたが、木材などの重量物輸送でこの安全意識は酷いですね。
コメントありがとうございます。私も帯広に住んでいた時は、上士幌を過ぎるくらいまでは真っ平だと感じていていました。ただ新聞記事を見ると帯広までずっと傾斜が続いているようです。安全意識ですが、当時は仕事優先で多少のことはしょうがないという意識があったのではないかと思います。
@@ばけさんの災害研究室まあちょっと前くらいまでトラックやダンプの過積載なんて当たり前みたいなところがあったくらいですからね😅。
あと300mでぶつかるという所では、例え老人じゃなくとも咄嗟に車外に出るなんてムリだよ。さらに向かってくるのが制御不能の丸太貨車ならどんな力が加わったか。国鉄の事故報告を聞いても、当時悪い意味での職人集団だったような気がするな。乗客よりも自分たちの仕事が優先だったみたいな。
コメントありがとうございます。仰る通り普通逃げられないと思います。しかし、とっさに車外に逃れることができた人が、丸太につぶされて亡くなるなんて、どんな罠だよと思います。職人集団の件、私も同感です。
安全側線が無かったのか。今年10月2にタウシュベツ川橋梁に行きました。
コメントありがとうございます。安全側線については分かりませんでした。タウシュベツ橋梁は崩壊が進んでいるので、いつまで見られるかわかりませんね。
初コメします。主に北海道の事故などを取り上げられておりますが、「塩狩峠」の事故が個人的に興味があります(感動的な意味で)。よろしければそちらの事故も動画にしていただければと。
コメントありがとうございます。お約束はできませんが、塩狩峠の事故の動画を作るとすれば、現地に行きたいと思うので春以降になると思っています。当時の新聞などで本当の姿が分かるとよいのですが・・
士幌線はほば方勾配です。帯広に向かって上り勾配で思い浮かぶのは武儀→駒場(音更川橋梁付近)と木野→帯広(木野から第2十勝川橋梁)暴走したらまず止まらない。
コメントありがとうございます。本当にまっすぐですよね。幌加から上士幌までの旧線も勾配がきついわりにほぼまっすぐでしたね。
士幌線でこんなことあったんですね!自分が生まれる前に廃止されてしまったから乗ったことは無いけど、地元の路線です
コメントありがとうございます。士幌線は、私が転勤で帯広に住んでいた時に廃線となりました。今となっては、一度乗っておけば良かったと思っています。
母が国鉄で事務員をしていた時、レールに両手を付いて足で貨車を押し出す作業をしていた作業員が、背後から突放されてきた貨車に両手指を轢かれて、ほとんどの指を失ってしまった話を聞いたことがあります。昔の国鉄は安全面もかなりいい加減だったんでしょうね。
コメントありがとうございます。今回関係機関区の資料を現地に行き閲覧しましたが、10人以上の方が殉職されていることに驚きました。それを考えると重い怪我をした方はかなりの数にのぼったと思います。やはり昔は安全に対する優先順位が現在と異なっていたのではないでしょうか。
上士幌出身(S48)だけどこんな事故があったのは知らなかった北平和駅とか懐かしい あの辺で事故があったのか 今思い返せばだから幽霊話があったのか…よく駅構内の留置貨物車のそばまで入り込み遊んでいたけど、ホント恐ろしい事していたなぁ😅
コメントありがとうございます。幽霊話があったとは知りませんでした。初耳です。しかし昔は安全意識というより、なにかあってもケガしたやつが悪いみたいな感じが強かったように思いますね。
国鉄職員の意識が緩い頃の時期だったのだろう
緩いより過酷な状況下での事例小樽築港での石炭車では死亡事故がありました。
ばけさんの動画は相変わらずよく考察されていて興味深かったです。多数の死傷者を出した重大事故という事を本当に認識してたらあんな舐めた言い訳できないでしょうに、これが国有鉄道だっていうんだから情けないですね。
コメントありがとうございます。こんな風に言っては当時の技術者に叱られるかもしれませんが、当時を知る知人によると経験重視の職人気質が強くあった時代だったそうです。それを聞くと、個人的な感想ですが、技術的なことを知らないものが口を出すなと、上から目線的な考えが多分にあったのではないかと思います。
国鉄が消えた理由はこういうところにもあったんだろうな、と感じた
貨車は、軽いので脱輪しやすく暴走は避けたいですね。
コメントありがとうございます。仰る通り暴走、ましてや脱線ははあってはいけないことです。ただ今回は脱線してくれたほうが死傷者がでなかったのではないかと思うと複雑です。
青函連絡船にある緊締具を各駅に配備しとけばよかったものを……。
コメントありがとうございます。昔は安全より効率優先の方が多かったですから手間がかかることはしなかったのではないでしょうか。私が社会に出た1980年初頭でもその名残がありましたから。現場では「ケガと弁当は自分持ち」と言われていた時代でした。
初コメです。この手の事故は神奈川県ですが、なんと国鉄末期にも起きてます。何新聞かわかりませんが、当時の新聞に掲載されています。昭和63年3月2日23:15東海道貨物線港北トンネル内で発生。横浜羽沢駅構内に留置の3両が1.3kmをポイントを割出し逸走、停止信号により停止してた貨物列車と衝突しました。この事故による○者は無しとなってます。作業内容は入機で到着列車前部の入換。そのあと後部3両目4両目のBPホースを切り離し、後部3両をエア抜き。後部3両を後ろから3車目の手ブレーキを緩め5mほど解放。再度手ブレーキを巻くものの緊締力不足により逸走(勾配はトンネルに向かって3.5、10‰と変化)原因は緊締力不足とルールにより前後1両となっていたが守っていなかった。というものでした…こんな感じで、全ての職場で無いにしろ、昔からやってるからといった理由で、安全より効率重視で作業している。コンプライアンスのコの字もないっていうのが改善されにくいもんなんだと感じました。あと、サムネの画像は適切ではないかと思います。同じ貨物列車とで国鉄の後継のJR貨物とはいえ、別組織ですし、そもそもコンテナ車でもないですよね。何らかしらでイメージであることを注意書きするべきかと思います。(JR貨物の企業イメージにもよくはないかと…)いつも質の高い動画を制作されているのは知ってるので、もう少しそこの配慮をして欲しかったなと思います…
コメントありがとうございます。色々なところで事故があったんですね。平成の初期までは安全意識より仕事重視で「24時間戦えますか」なんて今では考えられない歌が流行っていたくらいですから。それとサムネ変更しました。配慮が足らず申し訳ありませんでした。ご指摘ありがとうございます。
up済動画のサムネは変更までしばらくかかるようです。
再現映像無いの?
コメントありがとうございます。現状再現動画を作成するスキルがありません。申し訳ありません。。
@@ばけさんの災害研究室 残念
こんな事故が有ったんですね。1980年に帯広駅から十勝三股駅まで士幌線に乗ったことが有ります。78年から糠平駅から十勝三股駅まではバス代行運転となっていて代行バスに乗った記憶が有ります。1987年に士幌線は廃線になってしまった。事故が起きたのが7月3日で、私の誕生日、何かの関わりを感じてしまいます。乗車したのは有るイベントのためで、おそらく当時の1日3人という輸送実績からするととんでもない人数(通路まで人がイッパイ)が、しかもキャンプ道具を持って乗車したので糠平駅まで行く間の登り勾配のトンネル内で登れ無くなった記憶が有ります。確か2両編成の気動車でした。しばらくエンジンをふかしてトルクコンバーターの油温上昇で、何とか登れたんじゃ無いかと思います。まあそれだけ勾配が急だったと、この貨車暴走事故を知って再認識しました。余談ですが帰路、帯広で宿泊後に札幌に向う列車が台風崩れの低気圧によって大雨で滝川駅で運休になり道路が冠水する中、バス移動しました。以降道内の国鉄は3日ほど運休しました。この大雨は当時の降雨量記録で、多くの畜牛が洪水で溺死したと聞いています。
コメントありがとうございます。1984年から帯広に住んでいましたが、結局廃止まで士幌線に乗らず仕舞いでした。今考えると一度乗っておけば良かったと思います。そういえば80年と81年えらく雨が多かったなぁと思い出しました。
@@ばけさんの災害研究室 さん。帯広駅前のホテルに泊まる前に十勝川温泉にも行きましたよ。あの大雨運休のときバス移動で夜中過ぎに札幌バスターミナルに着き、日頃NGのバスターミナルでの泊まる事を許してもらい床に寝袋で寝ました。
関係ないが、突放とか操車場というとオーメン2のあのシーンがトラウマで・・・・
コメントありがとうございます。動画を作成していた時には気が付きませんでしたが、コメントを見て思い出してしまいました・・
貨車が脱線すれば まだ被害は少なかったのに...
コメントありがとうございます。本当にそう思います。
こんばんは〜士幌線の事故を受けてかどうか?国鉄のある本に広尾線などの暴走の時どのくらいで止まるかの記した資料集がありました ほとんどは途中止まったり 脱線でおわりますが 流石発車した後は無理ですが…
コメントありがとうございます。初めて知りました。実際に貨車を使った実験を行ったのでしょうか?
@@ばけさんの災害研究室 こんばんは〜僕もハッキリした事はわからないですが 狩勝実験線などの資料等である程度当てはめて予想だと思ういます 今は当たり前ですが 列車無線なるもの国鉄末期に配備してたので今は連絡直ぐ伝わります 又参考ですが 途中の有人駅に連絡して貨車枕木等で止めたり 客車を途中で止め乗客避難等対策ありましたが…
返信ありがとうございます。実験線の実験結果からですか。昭和44年の暴走事故では枕木と脱線器が使われてました。@@家ちび
これ…ブレーキ甘くて、衝突した勢いで動いた時に焼き切れ暴走じゃないか?2.5パーミルに33tが2両か………考えたくないな
コメントありがとうございます。ブレーキに関しては多分そんな感じだったと思います。昭和26年には同線の3パーミル以上の幌加~上士幌間で貨車2両が30kmを22分で暴走した事故がありました。
北海道は労働組合の影響が非常に強いと言われています。
コメントありがとうございます。その昔、友人が国鉄に勤めていて勤務の状況を聞いたときに「はあ?」と感じましたね。
十勝三股方から帯広方へ突放し、あたりの留置車両が帯広方へ流れたのでしょうか?当たる側の留置車両は普通サイドブレーキを掛けてると思いますが・・それとも突放車両とゲンコツ状態になり連結できずに留置車両2両だけ流れたのでしょうか?突放のスピードをコントロールする操車も、積載車両の受け手駅員のブレーキ操作も経験を求められます。ハッキリした原因が知りたいですね。昭和時代の木材輸送は鉄道に限らず、トラック・船・流送でも死亡事故がたくさんあり、父親の親友が木材輸送のトラックが横転し、下敷きになって亡くなりました。安全意識、情報伝達が未発達な時代、いろんな業種で事故がありました。
コメントありがとうございます。わたしもはっきりとした原因が知りたかったのですが、詳しい資料を見つけられませんでした。それと仰る通り木材運送に伴う事故は多かったようで、営林署管轄の森林鉄道などでも死亡事故が発生しています。しかし、その多くが発生した日付さえわからず、「〇〇年頃事故が発生した」と言う記載しかないため新聞記事も探せない状況ですし、見つけてもすごく小さな扱いです。
塩狩峠?
コメントありがとうございます。塩狩峠も暴走でしたね。小説が有名なのですが、当時の新聞でどのように報道されていたか調べてみたい気がしています。
国は…偉大なのです(*´ω`*)アカン事は…茶を濁す😟
コメントありがとうございます。残念ながら仰る通りの状況が多いようです・・
北海道は国鉄時代から問題が多いようだね。司法も腐ってるみたいだし。
それは本州も変わらないです。私が考えるに、日本というガラパゴスな国に国有鉄道が存在してはいけないように感じます。全国各地に大手私鉄を通し、日本を覆う私鉄電車を通すべきだったと思います。動力集中方式も日本では広まらないことを踏まえると、市電電車のような電車を長距離で走らせるようにすべきだったと思います。現に西の京阪電車、新京阪線では既に戦前から大型高速電車が走っており、300㎞の距離を超えても乗っていられる電車というものは存在しておりました。日本は客車ではなく積極的に電車を導入し、輸送力改善を行っていくべきだと考えます。電車大国アメリカでも前例がないものですが、日本は電車以外の鉄道車両は貨物用の貨車と機関車だけあればよく、少なくとも旅客用は電車以外のものはいらないように感じますね。
そのような事故があったのですね、はじめて知りました。これは私の憶測ですが、貨車の貫通ブレーキのコックを閉めた状態で作業をしていたのではないでしょうか?ブレーキがかかっていない状態でブレーキホースのコックを閉めてしまえば貨車は動いてしまいます。貨車の入換時に職員が「あの貨車はすぐに移動させるし、いちいちブレーキホースを繋げて、ブレーキ試験なんてするのは面倒くさいし、作業の効率が悪くなる」と手を抜いていたのではないでしょうか?日本の鉄道のブレーキはホース内の圧力が一定に保たれており、ブレーキホースが破損したり、外れたりすると、空気が抜ける作用で弁が動き自動でブレーキがかかり停車する仕組みです。ですので、2,5‰の緩い下り勾配でぶつかった衝撃でブレーキがかかっている貨車がすぐに転がっていくのは考えにくいでしょう。かなり強い衝撃で押されたか、貫通ブレーキのコックが閉まっていて、ブレーキがかかっていない貨車が下り坂を徐々に加速してしまったのではないでしょうか。緩い勾配からスタートし、ブレーキがかかっている積載貨車が60キロ以上の速度が出るのは甚だ疑問に思います。ブレーキコックも閉めたか、閉めてないか、なんて現場の人間しか分からないことですし、あとから口裏合わせなんて簡単にできますしね。
自動空気ブレーキの仕組みをもう一度調べてみてはいかがでしょうか?
50代60代の“老人“て…⁉️😭
コメントありがとうございます。この部分は新聞記事なのですが、入力しながら昔は同じ年齢でも現在より老けて見える傾向があったので仕方がないと自分に言い聞かせながら動画作成していました。
でも確かにそうでしたよね。😅40年くらい前なんか60代で亡くなる方も多かったのに今それくらいで亡くなったら「60代の若さで」ですからね。😂
昭和50年ごろまでは55歳定年でした。事故が起きたのが昭和31年なので定年退職者は老人扱いです。当時のその辺りの感覚はアニメのサザエさんの磯野波平さんの設定年齢が54歳。つまり定年退職直前と言う感じからわかります。お父さんと言うより、おじいちゃん感が有りますよね。
@@小北一仁-p1s そうですよね。40年ほど前まで80で亡くなったらほぼ“大往生“レベルでしたもんね⁉️生活状況や医療レベルも当時とは違うし。
@@尾崎主幸 さん。そう昔は80歳以上の方は珍しかった。近所に90越えたお婆さんが居られましたが、ちょっと恐かった覚えが有ります。今では100歳超えてる御長寿さんも珍しくないですよね。
魔理沙カワイイ目😊
コメントありがとうございます。
戦々恐々恐怖にオビエーール‼️‼️フランシスコ・ザビエル‼️‼️大西ライオン‼️‼️心配無いさ‼️
711レが士幌駅を発車したということは士幌・上士幌間の閉塞がなされていて、上士幌駅の帯広方分岐機は下り本線に開いていたということだろう。下り本線側に広がる側線に本線から繋がる分岐機は当然定位で本線に開いていたと思うが、恐らくは鎖錠機構のない簡易な錘付転換機で、流転した貨車はその重みで分岐機を割り出し、本線上に出てしまったってことでしょうね。
コメントありがとうございます。
ポイントの件については、はっきりしたことが分からずいささか疑問に思っていたのですが、このコメントの考察を見てなるほどと思いました。
知識のある方のコメント勉強になりました。
42年道産子やってます、親戚は帯広にいて、亡き祖父は標茶駅の保線区にいたのですが、この事故の話は初耳でした。投稿ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
私が帯広に住んでいた時に士幌線が廃止になりました。
その時に先輩が話していたのを思い出したのが調べるきっかけでした。
かなり有名話しですが 赤枠で初めてしりました ただしこ言う事例は一部のひとしか知らない場合が多くしらない事故も多いです。
戦争終結から10年経って、やっと生活も落ち着きを取り戻した時に…
コメントありがとうございます。
仰る通り、さてこれから観光でもしてのんびり暮らそうかという矢先の事故。
本当に無念だったと思います。
いつも貴重なお話ありがとうございます。今は昔、北の大地で発生した凄惨な事故は無き鉄道の思い出の前に風化していく…。
コメントありがとうございます。
徐々に鉄路があったことを知る人も少なくなり、忘れられていくのでしょう。
風化していくタウシュベツ橋梁のように。
ばけさんのチャンネルは知らない時代の北海道の事象の解説が多くて、ためになります。列車側はキハ12かなと思いましたが、5:43現場の写真だとキハ04かキハ05でしょうか。wiki見たら、士幌線の客貨分離をした5ヶ月後位でしたか。地域がら三股糠平からの貨車の暴走が何度も起きてますね。現在の上士幌駅跡交通公園でもそれくらいの勾配があるんでしょう。感じられないくらいのゆるい勾配に思いましたが、木材などの重量物輸送でこの安全意識は酷いですね。
コメントありがとうございます。
私も帯広に住んでいた時は、上士幌を過ぎるくらいまでは真っ平だと感じていていました。
ただ新聞記事を見ると帯広までずっと傾斜が続いているようです。
安全意識ですが、当時は仕事優先で多少のことはしょうがないという意識があったのではないかと思います。
@@ばけさんの災害研究室まあちょっと前くらいまでトラックやダンプの過積載なんて当たり前みたいなところがあったくらいですからね😅。
あと300mでぶつかるという所では、例え老人じゃなくとも咄嗟に車外に出るなんてムリだよ。さらに向かってくるのが制御不能の丸太貨車ならどんな力が加わったか。
国鉄の事故報告を聞いても、当時悪い意味での職人集団だったような気がするな。乗客よりも自分たちの仕事が優先だったみたいな。
コメントありがとうございます。
仰る通り普通逃げられないと思います。
しかし、とっさに車外に逃れることができた人が、丸太につぶされて亡くなるなんて、どんな罠だよと思います。
職人集団の件、私も同感です。
安全側線が無かったのか。今年10月2にタウシュベツ川橋梁に行きました。
コメントありがとうございます。
安全側線については分かりませんでした。
タウシュベツ橋梁は崩壊が進んでいるので、いつまで見られるかわかりませんね。
初コメします。主に北海道の事故などを取り上げられておりますが、「塩狩峠」の事故が個人的に興味があります(感動的な意味で)。よろしければそちらの事故も動画にしていただければと。
コメントありがとうございます。
お約束はできませんが、塩狩峠の事故の動画を作るとすれば、現地に行きたいと思うので春以降になると思っています。
当時の新聞などで本当の姿が分かるとよいのですが・・
士幌線はほば方勾配です。
帯広に向かって上り勾配で思い浮かぶのは武儀→駒場(音更川橋梁付近)と木野→帯広(木野から第2十勝川橋梁)
暴走したらまず止まらない。
コメントありがとうございます。
本当にまっすぐですよね。
幌加から上士幌までの旧線も勾配がきついわりにほぼまっすぐでしたね。
士幌線でこんなことあったんですね!自分が生まれる前に廃止されてしまったから乗ったことは無いけど、地元の路線です
コメントありがとうございます。
士幌線は、私が転勤で帯広に住んでいた時に廃線となりました。
今となっては、一度乗っておけば良かったと思っています。
母が国鉄で事務員をしていた時、レールに両手を付いて足で貨車を押し出す作業をしていた作業員が、背後から突放されてきた貨車に両手指を轢かれて、ほとんどの指を失ってしまった話を聞いたことがあります。昔の国鉄は安全面もかなりいい加減だったんでしょうね。
コメントありがとうございます。
今回関係機関区の資料を現地に行き閲覧しましたが、10人以上の方が殉職されていることに驚きました。
それを考えると重い怪我をした方はかなりの数にのぼったと思います。
やはり昔は安全に対する優先順位が現在と異なっていたのではないでしょうか。
上士幌出身(S48)だけどこんな事故があったのは知らなかった
北平和駅とか懐かしい あの辺で事故があったのか 今思い返せばだから幽霊話があったのか…
よく駅構内の留置貨物車のそばまで入り込み遊んでいたけど、ホント恐ろしい事していたなぁ😅
コメントありがとうございます。
幽霊話があったとは知りませんでした。初耳です。
しかし昔は安全意識というより、なにかあってもケガしたやつが悪いみたいな感じが強かったように思いますね。
国鉄職員の意識が緩い頃の時期だったのだろう
緩いより過酷な状況下での事例小樽築港での石炭車では死亡事故がありました。
ばけさんの動画は相変わらずよく考察されていて興味深かったです。
多数の死傷者を出した重大事故という事を本当に認識してたらあんな舐めた言い訳できないでしょうに、これが国有鉄道だっていうんだから情けないですね。
コメントありがとうございます。
こんな風に言っては当時の技術者に叱られるかもしれませんが、当時を知る知人によると経験重視の職人気質が強くあった時代だったそうです。それを聞くと、個人的な感想ですが、技術的なことを知らないものが口を出すなと、上から目線的な考えが多分にあったのではないかと思います。
国鉄が消えた理由はこういうところにもあったんだろうな、と感じた
貨車は、軽いので脱輪しやすく暴走は避けたいですね。
コメントありがとうございます。
仰る通り暴走、ましてや脱線ははあってはいけないことです。
ただ今回は脱線してくれたほうが死傷者がでなかったのではないかと思うと複雑です。
青函連絡船にある緊締具を各駅に配備しとけばよかったものを……。
コメントありがとうございます。
昔は安全より効率優先の方が多かったですから手間がかかることはしなかったのではないでしょうか。
私が社会に出た1980年初頭でもその名残がありましたから。
現場では「ケガと弁当は自分持ち」と言われていた時代でした。
初コメです。
この手の事故は神奈川県ですが、なんと国鉄末期にも起きてます。何新聞かわかりませんが、当時の新聞に掲載されています。昭和63年3月2日23:15東海道貨物線港北トンネル内で発生。
横浜羽沢駅構内に留置の3両が1.3kmをポイントを割出し逸走、停止信号により停止してた貨物列車と衝突しました。この事故による○者は無しとなってます。
作業内容は入機で到着列車前部の入換。そのあと後部3両目4両目のBPホースを切り離し、後部3両をエア抜き。後部3両を後ろから3車目の手ブレーキを緩め5mほど解放。再度手ブレーキを巻くものの緊締力不足により逸走(勾配はトンネルに向かって3.5、10‰と変化)
原因は緊締力不足とルールにより前後1両となっていたが守っていなかった。というものでした…
こんな感じで、全ての職場で無いにしろ、昔からやってるからといった理由で、安全より効率重視で作業している。コンプライアンスのコの字もないっていうのが改善されにくいもんなんだと感じました。
あと、サムネの画像は適切ではないかと思います。同じ貨物列車とで国鉄の後継のJR貨物とはいえ、別組織ですし、そもそもコンテナ車でもないですよね。何らかしらでイメージであることを注意書きするべきかと思います。(JR貨物の企業イメージにもよくはないかと…)
いつも質の高い動画を制作されているのは知ってるので、もう少しそこの配慮をして欲しかったなと思います…
コメントありがとうございます。
色々なところで事故があったんですね。
平成の初期までは安全意識より仕事重視で「24時間戦えますか」なんて今では考えられない歌が流行っていたくらいですから。
それとサムネ変更しました。
配慮が足らず申し訳ありませんでした。
ご指摘ありがとうございます。
up済動画のサムネは変更までしばらくかかるようです。
再現映像無いの?
コメントありがとうございます。
現状再現動画を作成するスキルがありません。
申し訳ありません。。
@@ばけさんの災害研究室 残念
@@ばけさんの災害研究室 残念
こんな事故が有ったんですね。
1980年に帯広駅から十勝三股駅まで士幌線に乗ったことが有ります。
78年から糠平駅から十勝三股駅まではバス代行運転となっていて代行バスに乗った記憶が有ります。
1987年に士幌線は廃線になってしまった。
事故が起きたのが7月3日で、私の誕生日、何かの関わりを感じてしまいます。
乗車したのは有るイベントのためで、おそらく当時の1日3人という輸送実績からするととんでもない人数(通路まで人がイッパイ)が、しかもキャンプ道具を持って乗車したので糠平駅まで行く間の登り勾配のトンネル内で登れ無くなった記憶が有ります。
確か2両編成の気動車でした。
しばらくエンジンをふかしてトルクコンバーターの油温上昇で、何とか登れたんじゃ無いかと思います。
まあそれだけ勾配が急だったと、この貨車暴走事故を知って再認識しました。
余談ですが帰路、帯広で宿泊後に札幌に向う列車が台風崩れの低気圧によって大雨で滝川駅で運休になり道路が冠水する中、バス移動しました。以降道内の国鉄は3日ほど運休しました。
この大雨は当時の降雨量記録で、多くの畜牛が洪水で溺死したと聞いています。
コメントありがとうございます。
1984年から帯広に住んでいましたが、結局廃止まで士幌線に乗らず仕舞いでした。
今考えると一度乗っておけば良かったと思います。
そういえば80年と81年えらく雨が多かったなぁと思い出しました。
@@ばけさんの災害研究室 さん。
帯広駅前のホテルに泊まる前に十勝川温泉にも行きましたよ。
あの大雨運休のときバス移動で夜中過ぎに札幌バスターミナルに着き、日頃NGのバスターミナルでの泊まる事を許してもらい床に寝袋で寝ました。
関係ないが、突放とか操車場というとオーメン2のあのシーンがトラウマで・・・・
コメントありがとうございます。
動画を作成していた時には気が付きませんでしたが、コメントを見て思い出してしまいました・・
貨車が脱線すれば まだ被害は少なかったのに...
コメントありがとうございます。
本当にそう思います。
こんばんは〜士幌線の事故を受けてかどうか?国鉄のある本に広尾線などの暴走の時どのくらいで止まるかの記した資料集がありました ほとんどは途中止まったり 脱線でおわりますが 流石発車した後は無理ですが…
コメントありがとうございます。
初めて知りました。
実際に貨車を使った実験を行ったのでしょうか?
@@ばけさんの災害研究室 こんばんは〜僕もハッキリした事はわからないですが 狩勝実験線などの資料等である程度当てはめて予想だと思ういます 今は当たり前ですが 列車無線なるもの国鉄末期に配備してたので今は連絡直ぐ伝わります 又参考ですが 途中の有人駅に連絡して貨車枕木等で止めたり 客車を途中で止め乗客避難等対策ありましたが…
返信ありがとうございます。実験線の実験結果からですか。昭和44年の暴走事故では枕木と脱線器が使われてました。@@家ちび
これ…ブレーキ甘くて、衝突した勢いで動いた時に焼き切れ暴走じゃないか?
2.5パーミルに33tが2両か………考えたくないな
コメントありがとうございます。
ブレーキに関しては多分そんな感じだったと思います。
昭和26年には同線の3パーミル以上の幌加~上士幌間で貨車2両が30kmを22分で暴走した事故がありました。
北海道は労働組合の影響が非常に強いと言われています。
コメントありがとうございます。
その昔、友人が国鉄に勤めていて勤務の状況を聞いたときに「はあ?」と感じましたね。
十勝三股方から帯広方へ突放し、あたりの留置車両が帯広方へ流れたのでしょうか?
当たる側の留置車両は普通サイドブレーキを掛けてると思いますが・・
それとも突放車両とゲンコツ状態になり連結できずに留置車両2両だけ流れたのでしょうか?
突放のスピードをコントロールする操車も、積載車両の受け手駅員のブレーキ操作も経験を求められます。
ハッキリした原因が知りたいですね。
昭和時代の木材輸送は鉄道に限らず、トラック・船・流送でも死亡事故がたくさんあり、
父親の親友が木材輸送のトラックが横転し、下敷きになって亡くなりました。
安全意識、情報伝達が未発達な時代、いろんな業種で事故がありました。
コメントありがとうございます。
わたしもはっきりとした原因が知りたかったのですが、詳しい資料を見つけられませんでした。
それと仰る通り木材運送に伴う事故は多かったようで、営林署管轄の森林鉄道などでも死亡事故が発生しています。
しかし、その多くが発生した日付さえわからず、「〇〇年頃事故が発生した」と言う記載しかないため新聞記事も探せない状況ですし、見つけてもすごく小さな扱いです。
塩狩峠?
コメントありがとうございます。
塩狩峠も暴走でしたね。
小説が有名なのですが、当時の新聞でどのように報道されていたか調べてみたい気がしています。
国は…
偉大なのです(*´ω`*)
アカン事は…
茶を濁す😟
コメントありがとうございます。
残念ながら仰る通りの状況が多いようです・・
北海道は国鉄時代から問題が多いようだね。司法も腐ってるみたいだし。
それは本州も変わらないです。私が考えるに、日本というガラパゴスな国に国有鉄道が存在してはいけないように感じます。全国各地に大手私鉄を通し、日本を覆う私鉄電車を通すべきだったと思います。動力集中方式も日本では広まらないことを踏まえると、市電電車のような電車を長距離で走らせるようにすべきだったと思います。現に西の京阪電車、新京阪線では既に戦前から大型高速電車が走っており、300㎞の距離を超えても乗っていられる電車というものは存在しておりました。日本は客車ではなく積極的に電車を導入し、輸送力改善を行っていくべきだと考えます。電車大国アメリカでも前例がないものですが、日本は電車以外の鉄道車両は貨物用の貨車と機関車だけあればよく、少なくとも旅客用は電車以外のものはいらないように感じますね。
そのような事故があったのですね、はじめて知りました。
これは私の憶測ですが、貨車の貫通ブレーキのコックを閉めた状態で作業をしていたのではないでしょうか?ブレーキがかかっていない状態でブレーキホースのコックを閉めてしまえば貨車は動いてしまいます。貨車の入換時に職員が「あの貨車はすぐに移動させるし、いちいちブレーキホースを繋げて、ブレーキ試験なんてするのは面倒くさいし、作業の効率が悪くなる」と手を抜いていたのではないでしょうか?日本の鉄道のブレーキはホース内の圧力が一定に保たれており、ブレーキホースが破損したり、外れたりすると、空気が抜ける作用で弁が動き自動でブレーキがかかり停車する仕組みです。ですので、2,5‰の緩い下り勾配でぶつかった衝撃でブレーキがかかっている貨車がすぐに転がっていくのは考えにくいでしょう。かなり強い衝撃で押されたか、貫通ブレーキのコックが閉まっていて、ブレーキがかかっていない貨車が下り坂を徐々に加速してしまったのではないでしょうか。緩い勾配からスタートし、ブレーキがかかっている積載貨車が60キロ以上の速度が出るのは甚だ疑問に思います。ブレーキコックも閉めたか、閉めてないか、なんて現場の人間しか分からないことですし、あとから口裏合わせなんて簡単にできますしね。
自動空気ブレーキの仕組みをもう一度調べてみてはいかがでしょうか?
50代60代の“老人“て…⁉️😭
コメントありがとうございます。
この部分は新聞記事なのですが、入力しながら
昔は同じ年齢でも現在より老けて見える傾向があったので仕方がないと自分に言い聞かせながら動画作成していました。
でも確かにそうでしたよね。😅
40年くらい前なんか60代で亡くなる方も多かったのに今それくらいで亡くなったら「60代の若さで」ですからね。😂
昭和50年ごろまでは55歳定年でした。
事故が起きたのが昭和31年なので定年退職者は老人扱いです。
当時のその辺りの感覚はアニメのサザエさんの磯野波平さんの設定年齢が54歳。つまり定年退職直前と言う感じからわかります。
お父さんと言うより、おじいちゃん感が有りますよね。
@@小北一仁-p1s
そうですよね。
40年ほど前まで80で亡くなったらほぼ“大往生“レベルでしたもんね⁉️
生活状況や医療レベルも当時とは違うし。
@@尾崎主幸 さん。
そう昔は80歳以上の方は珍しかった。近所に90越えたお婆さんが居られましたが、ちょっと恐かった覚えが有ります。
今では100歳超えてる御長寿さんも珍しくないですよね。
魔理沙カワイイ目😊
コメントありがとうございます。
戦々恐々恐怖にオビエーール‼️‼️フランシスコ・ザビエル‼️‼️大西ライオン‼️‼️心配無いさ‼️